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"菜翁が旨"さんのほほ~ぇむ健康ペ~ジ

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高麗橋三越のハイチの食器とニュージャパンの素うどんの出前(S35,6年頃)

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『高麗橋三越のハイチの食器とニュージャパンの素うどんの出前』


給料手取りで8,000円、下宿代が賄い付きで6,400円の小料理屋だった家の二階での下宿生活をしていたころである。

この下宿は、市電・森ノ宮停留所の近くで、今は無き日生球場の北側にあって、ナイターの照明が部屋に注ぎ込むほど近いところで、会談を上がった二階には二間続きの6畳があり、それぞれの部屋には、二人づつ下宿をしていた。
私との相部屋の人には、殆んど出会うことがなかった。
だから、話をしたことすらないし、顔も知らない、部屋の隅にヒチンと積んである布団を見るだけの不思議な下宿生活であった。


さて、馬場町のNHK大阪中央放送局(JOBK)の道路を挟んで西側に新設された、大阪市教育委員会事務局所管の大阪市中央体育館に勤務していたころである。

大阪市中央体育館の少し離れた南には、市立港体育館での設備の点検作業中に脚立から転落して脳震盪を起こして救急搬送されて入院していた国立大阪病院があり、道路を挟んで北側は、時折昼食を食べに行っていた大阪府警と、その隣りは散髪をしていた家庭裁判所があり、また、体育館の西は、奈良の国有林での松茸狩りに招待された大坂営林局があった。

良い『向こう三軒両隣』どころか、「東西南北お隣さん」の関係であった。

勿論、東のJOBKは、ラジオの「東西対抗クイズ合戦」のデモンストレーション番組に出演させてもらったり、テレビでのスポーツ中継の折には、いろいろとお世話をしたりした間柄であった。

当直があるときには、下宿のおばさんにあつかましい(と、いうより、死活問題であった)お願いして、二食分のお米二合を戴いて当直あいてとともに、ご飯を炊いて食べていた。

夕食のおかずは、いまだからいえるが、当直の巡回・点検の折に、体育館内に併設されていた食堂、「グリル大和」の冷蔵庫の中までしっかりと点検したときに毒見点検(?)のために一切れづつ切って頂いたハムであった。

朝食のおかずはいつもニュージャパンからの出前の素うどんであった。

寒さの厳しい冬の朝などは、出来立ての熱いうどんが、届いたころには冷やしうどんに変身していることもあった。

この「ニュージャパン」というのは、NHK大阪の南にあったニュージャパン柔道協会の道場に併設されていた大阪府柔道連盟の会長・浜野正平さんが営んでいた食堂の名前でもあった。

ここには、鹿児島から集団就職してきた、女の子達が数人、働いていた。

この食堂は、朝練を終えた道場生のために朝も、早くから営業していたのである。

当直二人で二杯・朝もやのなかで集団就職の女の子の素うどんの出前・・・

生きる事、喰うことに懸命になっていた頃には気付かなかった、かすかに残った戦後のかおりのする風景を想い出した。


市電(路面電車)の乗車券は、確か一枚13円で、どこまででも乗る事が出来た。
乗り換えするときには、降りるときに乗換券をもらって、別の電車に乗れた。
こうやって、13円で一日中、路面電車に乗って過ごす事もできた時代であった。

戦後の香り、といえば、市電の停留所では、おばはん達が乗車券を売っていた。
11枚売って13円の儲けであった。
と、いうのは、11枚綴りの回数券を、一枚づつに分けて売っていたのである。

その横では、もくもくと「もく拾い」をしているおっさんがいた。
「もく拾い」とは、ポイ捨てされた煙草の吸殻を拾うことである。
市電の停留所の掃除をしている訳ではない。
拾った「モク」で再生たばこを作って売るためである。

乗車券売りのおばはんも、モク拾いのおっさんも、一つの乗り場には一人だけであった。
きっちりと棲み分けが出来ていたようであった。

これがヒントになって、夏のボーナスならぬささやかなお見舞金の一部を投資して11枚綴りの玉造の日の出通りの風呂屋(銭湯)の回数券を買って、生活費に余裕をもたすことを覚えた。

背広を買うことができたのは、それも、丼池筋での首吊り(吊るし)を、冬のボーナスの大半をはたいての、大きな買い物であった。

それまでは、夏場を除けば、カッターシャツにカラーのついた黒い高校の制服であった学生服が、裕福な家庭の自宅通勤者を除いたありふれた新社会人の通勤電車や職場でウイウイしい動作・姿が職場のシンボルであった。

なんせ、就職のために家をでるとき親から貰ったお金は、給料をもらうまでの生活費として給料一ヶ月分だけだったのである。

その上、四月に採用された新卒者には、わずかな見舞金だけで、夏のボーナスといえるような金額は支給されなかった。

役所であっても、夏の賞与というものは、前年の10月から今年の3月までの業績に対して支払われるものであったのである。
従って、四月採用者は対象外であった。

役所や世間を恨むことなど考えてもみなかった。

職場の同僚達も、ニュージャパンの食堂の女の子たちも、市電の停留場で回数券を切り売りしている切符売りのおばさん達も市電の停留場でモク拾いをしている人たちも、みんな、貧しくても明るくて溢れるほどの生命力には大いに勇気付けられた。


このころ、職場の親睦運動会で景品係りの世話役をおおせつかったことがあった。

会費から参加賞と1、2,3位などの賞品をそろえる役割であった。

こんな機会でしか縁のない、大阪・高麗橋にあった江戸時代に創業した越後屋・三越百貨店でみつけたのが、スプーンやお皿などのぬくもりがあって実用的なそして、価格も手ごろな「ハイチの木彫りの食器」であった。

後日、「例の景品はどこで貰ったものなんだ。」と、突然言葉をかけられて、何のことやらさっぱり分からず、戸惑っていると、三越で買った賞品の『ハイチの木彫りの食器』のことであった。
現物を見せてもらうと、裏に「ある会社の創立何十周年かの記念品」と金文字が入っていた。

驚いて三越に持っていって見せたが、今思い出しても、天下の三越の強さ?を見せ付けられた記憶しかない。
なんせ、領収書はすでに会計担当者に渡してしまっているし・・・

この時、あやうく高麗橋三越に準公金横領の濡れ衣を着せられそうになった私に声を掛けて救ってくれたのは、当時大阪市教育委員会事務局のエリートと言われていた体育係長で、のちに体育課長、大阪体育大学教授、そして2008年5月8日に亡くなった日本陸上競技連盟名誉副会長の木南道孝さん(1920年~2008年)であった。

 木南道孝さんは、1952年(昭和27年)第15回ヘルシンキオリンピック(日本も復帰が認められ、16年ぶりのオリンピック大会参加・男子16名、女子3名が参加。)障害(ハードル)の代表であり、ハードル競技の第一人者として活躍1949-1952年まで110m障害で日本選手権同種目4連覇1951年に14秒5日本記録樹立1962年まで破られなかったというスポーツ歴を持っておられた人である。

2014年5月功績をたたえ、「木南道孝記念陸上競技大会」が大阪で開催された。

そしてまた、木南道孝さんは、料理研究家の土井勝さん( 1921年01月05日– 1995年03月07 日(74歳)) 料理研究家。
妻は土井信子さん、長男は土井敏久氏、次男は土井善晴氏)と朋友関係にあったとも聞いている。

この土井勝さんは、岩津ねぎを世に広めた人でもある。

我が家でも、毎年、7月20日の「海の日」に岩津へ行って買ってきた苗の岩津ネギを栽培していることを考えると、これもなにかのめぐりあわせであろうか、とも思える。



さて、天下の三越で賞品用の品物を買ったときの、店員の充分に腰を折った「ありがとうございました」は、なんだったのだろうか?

信用を重んじる商人ならば、決して客に売ってはならない品物を客に売って儲けさせて頂いて「ありがとうございました」だったのだろうか?

『天下の三越の信用』とは、このようにして弱者を踏み台にして築かれたものだったのだろうか?

時代劇の悪代官や悪大名と結託している悪徳商人を忘れずにはいられない出来事であった。


それにくらべて、ニュージャパンの素うどんの出前をしてくれた集団就職の店員の素朴で心のこもった「ありがとう」は、届いたころには冷たく冷えた冬の朝の出前の素うどんがどれだけ温かいものであっただろうか。

このニュージャパンとは、大阪府柔道連盟会長・浜野正平九段の道場に併設されている九州からの集団就職の女の子たちが働いている、馬場町NHKのすぐ南の食堂のことである。

人生のいろんな局面で、判断を迷う時の貴重な経験になったことだけは確かであった。

高度経済成長前の、昭和35,6年ごろのこと…であった。

※   ※   ※   ※   ※

それから、20数年後のことである。

姫路に『やまとやしき』というデパートがある。

そこで、職場の同僚の結婚式があり、礼服をその、『やまとやしき』というデパートで新調して、挙式当日に受け取って、大手前地下駐車場で着替えて、式場へと向かうことにしていた。

地下駐車場で着替えるために今まで履いていたズボンのベルトをはずして礼服のズボンにはめこんで礼服を履こうとズボンを両手で広げて右足を入れたところ、ズボンの腰回りが随分と広すぎることに気がついた。

そういえば、ベルトを通しているときにも、ベルトがズボンに対して短いなぁ~、とは感じていた。

ズボンを履いてみると、だぶだぶであった。

慌てて礼服の上着の内側の名前を見て、唖然とした。

名前が違っているのだった。

私の名前ではなかったのである。

今から交換に行くには、結婚式の開式時間には到底、間に合わない。

今更、仕方がないので、その、だぶだぶの礼服を着用して出席するしかなかった。

Mサイズの私が3Lサイズの礼服を着用しているのだから、ぶざまを通り越してしまっている。

恥かしい思いを顔や態度に現さないようにしながら、その思いを隠して、ひたすら、お目出度い席を堪えていたのだった。

しかし、堪えている間に、ふと、気がついたのは、だぶだぶの礼服を着用して出席したのは、私の責任ではないのだ、『やまとやしき』というデパートの責任なのだ、と、気づいた。

すると、恥かしい思いは消えてしまったのであった。

『高麗橋三越』にせよ、『やまとやしき』にせよ、しょせんは、ブランドという虎の威を借りた女狐でしかなかったのである。

ブランドを維持する努力を知らない、ブランドの上にどっしりとあぐらをかく商売しか知らない商人でしかなかったのである。

その結婚式の終了後、その他人のだぶだぶの礼服を持って、再び『やまとやしき』へ寄って、私のほうからは理由を説明せずに本当の礼服を交換してもらったが、店員は、ごく普通に交換してくれただけであった。

相当時間が経過しており、しかも、一度着用してしわも出来ていたのだったが、何も気づかなかった様子であった。

その、3Lサイズの礼服の注文主は、私が一度着用したしわができたものをクリーニングされないまま、知らずにそのまま、受け取ったのであろうか?

そういえば、商人が『(お買い上げ)有難うございます(また、お越しください。)』と言って客に頭を下げてるのは、商品を買った客に向かって言っているのではななくて、客が支払ってくれた『お金』に向かって、そして財布の中に残っているお金に対して言っているだ・・・と云うことを、中学生の頃、毎年の夏休みに一週間ほど大阪・船場の伯母の店で過ごしていた頃に覚えたことを思い起こした出来事であった。

『ブランド』に固執する商人(店)ほど、「金さえもらえば・・・」であろうか?


                                
『ブランドとは、たとえば「憩」でも三越の包装をすれば「ピース」になるのである。』

   
                             ― 菜翁が旨さん―  


濱野正平

   1937年(昭和12年)10月23-24日
    日本柔道選士権大会(にほんじゅうどうせんしけんたいかい)第7回大会
    講道館主催、朝日新聞社後援
    於:講道館
    区分:専門
    区分2:成年前期 38-43歳
    準優勝:浜野正平(6段)

    1943年昭和18年4月:大阪府警察柔道主任師範、
    1964年昭和39年3月:主任師範を退き名誉師範


   1950年4月1日
   ニュージャパン柔道協会 発足
    大阪城下お壕端旧八連隊跡地に敷地1500坪、会館200坪、練習場150坪、総檜造りの大道場が完成した(会長・浜野正平九段)。

   講道館柔道図書館柔道関係蔵書目録
   請求記号:789 22 H25
   書籍名:日本学生柔道団のソ連遠征記と肩のこらないソ連見聞記
   著者名:浜野正平
   出版社:ニュージャパン柔道協会
   出版年:1964年


   講道館柔道図書館柔道関係蔵書目録(2011年度新規受け入れ資料)
   請求記号:789 22 H25
   書籍名:浜野正平投げて投げられ60年
   著者名:山本博・小島等監修
   出版社:大阪府柔道連盟・㈶  ニュージャパン柔道協会
   出版年:1975年


   昭和43年(1968)10月23日~25日
   第6回世界柔道選手権大会(メキシコ・メキシコシティー
   日本選手団:団長・浜野正平(強化委員長)、
   監督・神永昭夫(富士製鉄)、
   コーチ・猪熊 功(東海大教)
   日本人審判員:清水正一(日本体育大教)、松本安市(東海大教)、夏井昇吉(警察学校教)


   昭和46年(1971)9月2日~4日
   第7回世界柔道選手権大会(西ドイツ・ルドウィグスハーフェン
   日本選手団:団長・浜野正平、
         監督・松本安市、
         コーチ・神永昭夫、
         日本人審判員:醍醐敏郎、大澤慶己、橋元 親

 
大阪市中央体育館
    1959年7月9日に大阪市東区法円坂に竣工・こけらおとしがおこなわれた。
    大阪市が日本生命保険相互会社からの三億円の寄付を受けてアマチュアスポーツの殿堂として大林組が建設したものであり、それに従って運営されていた。
    初代館長は、大阪学芸大学を定年で退官された上嶋 芳武氏であった。

    また、19xx年には、大阪市中央体育館体育医事相談所が開設され大阪市立大学医学部の小田 俊郎氏が兼任で就任された。
    そして、1961年6月25日に開催された、「第16回 毎日マラソン(大阪・浜寺公園発着-住之江町、岸和田折り返しコース)に、前年のローマ五輪金メダリスト、アベベ・ビキラ、ワミ・ビラツ(いずれもエチオピア)が招待され、 レース前後出来得る範囲で大阪市中央体育館体育医事相談所において、運動医学的検索データの収集が行われた。

    

    1959年9月27日
    第9回全日本東西対抗柔道大会(大阪市中央体育館)
    各軍30選手編成の点取り試合に変更。11-11で引分


    1961年6月11日
    全日本柔道体重別選手権大会(大阪市中央体育館)
    大阪府柔連主催・全柔連後援。世界選手権に無差別と共に体重制も採用される見通しとなり、これに備えて大阪府柔連が初の全国レベルの体重別大会の開催に踏み切った。軽量級(63kg未満)・岩田兵衛(近畿)、中量級(80kg未満)・関勝治(関東)、重量級(80kg以上)・山岸均(北海道)がそれぞれ優勝。


    『公益財団法人 全日本柔道連盟 全柔連の歴史・国内の柔道界』ほか より
                       


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